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ペルー情報

ペルー情報メイン画面 ペルー基本情報 十箇所の世界遺産 三つの地域

ペルーの歴史


プレインカ時代
ペルーの最初の文明は、山岳地域のワンタル(アンカシュ県)で紀元前1200年から紀元前200年にかけて栄えたチャビン文化と言われています。紀元前1000年ごろに作られた神殿チャビン・デ・ワンタルは、ユネスコの世界遺産にも登録されています。

パラカス文化(紀元前200年〜600年)は、南部海岸地域で栄えました。そこでは特に織物の文化が発展しました。

北部海岸地域で発展したのは、モチェ文化(紀元前200年〜600年)です。有名なシパン王はこの時代の末期の王で、その墓からは黄金の数々が見つかりました。この文化の肖像や図像のデザインには素晴らしいものが見られます。
チャビン遺跡のランソン

山岳地域では、ボリビア側のチチカカ湖畔南側で発展したティワナク文化(紀元前200年〜1200年)がチチカカ湖一帯に影響を及ぼしました。

ナスカ文化(紀元前300年〜900年)は海岸砂漠地域で栄え、地下水路や、巨大な地上絵を残しました。現在、ナスカの地上絵の謎を解こうととする研究者は数多く、色々な学説が存在します。
シパン王の墓

ティワナク文化の影響を受けて発展したワリ文化(600年〜1200年)は、アヤクチョを中心にアンデス地方に広がりました。

チムー文化
(1100年頃〜15世紀)は、北部海岸地域のトゥルヒーヨから5kmのところにあるチャン・チャンを首都として、インカに征服されるまで栄えました。チャンチャン遺跡はユネスコの世界遺産に登録されています
チャンチャン遺跡

チャチャポヤス文化(800年頃〜15世紀)は、北部熱帯雨林地域で栄えました。クエラップ要塞がこの文化の偉大さを語ります。
クエラップ要塞

インカ文明
インカ文明(11世紀末〜16世紀)は、南米で発展した最も重要な文明です。

インカの人々は、大地(パチャママ)と太陽(インティ)を崇拝していました。タワンティンスーヨ(四つの地方からなるインカ帝国)の君主であるインカ皇帝は、太陽の息子とみなされていました。太陽が、自分の子供達(マンコ・カパックとママ・オクジョ、またはアヤル4兄弟とその妻たち)をこの地におくり、インカ帝国の中心となる聖なる都市クスコを設立したと言われています。

タワンティンスーヨ(またはインカ帝国)の支配領域は、北はコロンビア、南はチリとアルゼンチンの一部、そしてボリビアとエクアドルの全域にわたるほどに至りました。彼らの優れた経済組織、富の分配、芸術、建築技術には驚かされますが、それほどの大帝国を築くことができた理由が理解できます。


クスコのサクサイワマン遺跡
しかしその帝国も、16世紀にスペイン人のフランシスコ・ピサロにより、最後の皇帝アタワルパ処刑をもって滅ぼされます。

二つの世界の出会い
インカとスペインの二つの文化の出会いは16世紀のスペイン人による征服によって始まります。1532年に、スペイン人のフランシスコ・ピサロがカハマルカでインカの最後の皇帝アタワルパを捕らえ処刑した後、1542年にスペイン支配下ペルー副王領となりました。

16世紀の間に、副王フランシスコ・デ・トレドにより先住民の労働力を管理するシステムが作られ、植民地時代の経済の基盤ができます。
皇帝アタワルパが幽閉された部屋クアルト・デ・レスカテ

しかし、その後王朝が変わり、また18世紀のブルボン王朝の改革などが行われる中、植民地の社会の不満が高まります。先住民が数々の反乱を起こし、トゥパク・アマルUが起こした反乱は、その後クリオーヨたちの独立運動へとつながります。

この時代、カトリック教とアンデスの土着信教とが入り混じり、混合的な信教システムが生まれました。現在に至るまでその混合信教の伝統が続いています。また、スペイン人と同時に黒人も到来し、先住民とスペイン人と共にペルー人社会を構成する要素となりました。

独立
ドン・ホセ・デ・サン・マルティンにより、1821年にペルーの独立が宣言されます。その後1824年にはシモン・ボリーバルが独立戦争を終わらせました。しかし、19世紀の若いペルー共和国は、厳しい経済危機や、軍事的なカウディーリョ政治体制により苦しまざるを得ませんでした。

1860年頃になると、グアノ(海鳥の糞の堆積。肥料として使われる)、綿花、砂糖の生産が増加し、先住民や黒人奴隷だけでは労働力が足らず、中国人やヨーロッパ人の移民がペルーの社会に加わりました。この頃、マヌエル・パルド大統領により初めて民政体制が置かれました。19世紀の末には、日本人移民も到着します。

1879年ペルーはチリとの戦争に巻き込まれます。ペルーは敗戦し、経済難に陥ります。しばらく軍事政権に支配されますが、その後民政に戻り、貴族政治の時代が始まります。ペルー経済は大土地所有者のエリートたちに支配され、ゴム生産がブームとなりました。

現在のペルー
20世紀の初めは、アウグスト・レギアによる民政の長い独裁政権が続きました。国家の近代化を目指したプロジェクトは、結果として国に借金を残しました。また、この時代にアプラ党の創始者アヤ・デ・ラ・トーレや、独創的な社会主義者ホセ・カルロス・マリアテギなどの知識人が出現しました。

レギア失脚後、軍政に戻り、1939年にプラド、1945年にブスタマンテによる民政が一時行われますが、1948年にマヌエル・オルディーアにより再び新たな軍政が行われます。

1963年にフェルナンド・ベラウンデが当選しますが、1968年に軍クーデタが起こり、フアン・ベラスコ・アルバラードが大統領となります。フアン・ベラスコ・アルバラードは、石油とマスメディアを国有化し、農業改革を実施しました。フランシスコ・モラレス・ベルムデス将軍による軍政がそれに続きますが、民衆の圧力を受けて憲法改正が行われます。

1980年、再びベラウンデ当選します。しかし、国の最も貧しい地区に生きる人々の危機的状況は、センデロ・ルミノソ
MRTAによる武装闘争を生み出し、その後10年間ペルーを苦しめることになります。

アプラ党のアラン・ガルシア(1985年-1990年)の時代、国はハイパーインフレに見舞われます。その後1990年に当選した日系人大統領アルベルト・フジモリは、1992年に自主クーデタを行い国会を閉鎖しました。フジモリ大統領によりテロ対策は強化され、テロ組織の重要指導者たちが逮捕されます。1995年、フジモリは再選を果たしましたが、翌年の1996年12月にMRTAによる日本大使公邸事件が起こり、大きな危機に立たされます。しかし1997年4月に人質解放に成功し、2000年の選挙でフジモリは2度目の再選を果たします。

しかし、選挙に不正があったとの大きな批判が相次いだため、フジモリは2001年に再度選挙を行うことを発表します。その後、身の危険を防ぐために大統領を辞任、日本に滞在することになります。バレンティン・パニアグア国会議長が臨時大統領を務めます。

2001年、アレハンドロ・トレドが大統領に就任します。2006年の大統領選では、民族主義者の元軍人オヤンタ・ウマラと僅かな差でアラン・ガルシアが当選し、現在の大統領となります。2011年までの政権を担当します。